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米国MIT留学報告(植田 麻記子)

学園都市ボストン−ボストンマラソン爆発事件を手がかりにアメリカの多文化・多民族社会を考える  (2013.7.31)

 日本のニュースで、ボストンが取り上げられることが多くなったと聞きます。ボストンはアメリカの中でも居住者数における博士号保持者の数が最も多いといわれ、所在大学、学術・研究機関が非常に多い学園都市です。世界中から、学生や研究者が集まり、大きな日本人コミュニティもあります。
 振り返れば、2012年に、iPS細胞の研究で京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞した際に、iPS細胞の臨床事例を主張し、その後その真偽が問われた研究者がハーバード大学メディカルスクール・マサチューセッツ総合病院(MGH)の客員研究員であったことが、日本で大きく報道されたことがありました。MGHはMITから歩いてすぐのところにあります。なぜ、後々真偽が問われるような主張をそのまま報道してしまったのか。日本人は「ハーバード大学」という名前に弱く、すっかり同研究者の発言を鵜呑みにしてしまったとも指摘されました。しかし、学歴社会はアメリカも変わらず、ハーバード大学のキャンパスには国内外から観光客が集まり、「ハーバード」と聞けば、誰もが「すごい!」と思うのです。
 そうした権威を軸に、広く世界に門戸が開かれ、多くの優秀な研究者が集まるこの街は、確かに知的な刺激に溢れ、科学の進歩のために、日々、彼らの知能、そして夢や野心を吸収し、ユニークな魅力を放っている一大学園都市と言えます。ボストンで第一に感じることに、人の移動の多さがあります。アメリカ国内外から集まった多くの学生、客員・訪問を含む研究者は数年でボストンを離れて、母国に帰国したり、新たな赴任先に移動します。そうして、入れ替わり立ち代り、様々な技術や知恵を持った人材が集まり、学術の街を作っています。そうした学問における開放性こそ、ノーベル賞受賞者数最大を誇るアメリカの強みであると見る人もいます。
 次に、ボストンに関して日本のニュースの話題をさらったのは、今年4月に起こったボストンマラソン爆発事件ではないでしょうか。この事件がテロであると名言された時、「なぜボストンで?」という声が上がりました。ペンは剣よりも強し―学者・研究者の街に爆弾は似合わないと多くの人が感じました。まして、市民マラソンを狙ったものであったため、ショックも大変大きなものがありました。亡くなった被害者には、幼い少年、若い女性、そしてBU(ボストン大学)の中国人留学生が含まれていました。中国人留学生のコミュティそして、大学関係者、そして街全体に悲しみが広がりました。留学生が世界中から集まる学術の街で、将来を嘱望された留学生にこのような悲劇が起こったことが悔やまれました。
 自然科学、人文・社会科学、科学、実学、あらゆる領域でイノベーションを起こす知的取り組みは、時に既成概念やシステムを疑問視し、あるいは突き崩そうとする試みに展開します。常に学問の進歩を求める大学や学術機関では、多様な価値観が保証されなくてはなりません。複雑な国際情勢にも関わらず、国籍、民族を超えて人が集まり、大学や研究機関では知的進歩を目的に、広く学術の機会が広く開かれ、自由な議論が奨励される場であるべきだと理解されています。そして、アメリカはその開放性に強みを持つ「自由の国」として、科学的進歩、文化的先進性を誇っているのだ、というのが、しばしば人々に語られてきました。実際、国を追われ、アメリカに逃れた学者や芸術家が多くの業績を残してきました。そして、現在、MITの大学院では、事実、全体の約41%をインターナショナルな学生が占めています。
ニューヨークの進歩的知識人として知られた社会学者ネイサン・グレイザーは著書、We Are All Multiculturalists Now の中で、白人とヒスパニック系移民、そしてアジア系移民間の婚姻が進む中、白人と本来彼らに最初にアメリカに連れてこられ、両者の関係性は最も歴史的に長いはずのアフリカ系アメリカ人、黒人との間の婚姻率が依然として、低いままであることを指摘しました。私自身、ワシントンDCを訪問した際に、アフリカ系アメリカ人の居住地区がその他のエスニスティに対して、未だに明確に別れている現実を実感しました。
 今月の6月の13日、ボストンでは、大規模なゲイ・パレードがありました。私は学園都市としてリベラルな空気の強いボストンらしい光景だと思いました。一方で、私がボストンのカトリック教会で出会ったある女性は、宗教的観点から中絶、同性婚に強く反対し、そして女性が結婚・出産・育児よりも仕事のキャリアを優先することにも強い嫌悪感を持っていました。アメリカ社会における保守派の人の意見に、私が初めて触れた瞬間でした。大学や学術機関の中にいては、見えにくい、しかし、ボストンのもう一つの側面です。私の友人は、ボストンを非常にアンバランスな街だと表現しました。大学や研究機関を中心にリベラルな空間がぽっかりと中央に浮くような形で存在し、一歩その外を出れば、非常に保守的な雰囲気が強く残っているのだと。マイノリティにとってより生きやすいのはニューヨークだという意見もよく聞かれます。実際、私の社会運動などを目指す多くの友人はボストンからニューヨークへと移って行きました。
 そして、第二次世界大戦後に超大国として世界の覇権を握ったアメリカは時に国際政治の力学からも、国内における思想の自由に大きな犠牲を払ってきました。1952年、喜劇王として知られたチャールズ・チャップリンは、赤狩りの最中、アメリカを離れ、スイスに向いました。それから半世紀、冷戦を終結した2001年に起きた同時多発テロは、アメリカ国内のイスラム社会に対する厳しい疑惑と時に憎悪や賢の視線を生みました。当時、それは時に、アメリカ社会に懸命に溶け込もうとするイスラム圏からの移民に対する根拠のない差別になりました。
 しかし、ここで、私は、人々がその多文化・多民族社会の、時に人種、民族、文化、宗教の相違による衝突と摩擦による痛みをともなう歴史の中で、常に学んできたことを強調して、今回のコラムを閉じたいと思います。残念なことに、今回のテロ事件でも、エスニスティにまつわる心ない言説も見られました。しかし、同時に、そうした発言への人々の反発もまた非常に強いものがありました。人々は着実に9・11から学んでいると思います。人々の多くははなぜ、ツァルナエフ兄弟が事件を起こすにまで至ったのか、国際情勢、国内社会の観点などから背景を探り、複合的に、そして個別的に理解し、知りたいと考えていると思います。

【参照】
MIT, International Students Office による統計。(http://web.mit.edu/iso/stats_12-13/general.shtml)
 しかし、多文化社会・多民族社会の歴史は、実際には様々な人種、民族、文化が交錯する中で、複雑に対立し社会の軋轢を生み出しては、そこから人々が学んできた歴史でもあります。かつてアメリカの多文化主義の象徴と言われてきたニューヨークは「人種のるつぼ」と評されました。確かに、私のアメリカ人の友人も、ほとんど皆二世代も遡れば、アメリカ以外の国にツールを持っています。しかし、現在では、多文化が決して真に混じり合うことはなく、並立共存する社会であるという現実を強調し、次第に「るつぼ」ではなく「サラダボール」と言い換えられるようになりました。多くの移民を受け入れてきたアメリカにとって、移民社会による多文化主義こそ国を支える力である一方で、人種差別を中心とした、エスニスティの問題は国内政治の最大の課題であり続けています。

【参照】
 ネイサン・グレイザー/ダニエル・P.モイニハン(安倍齊/飯野雅子訳)『人種のるつぼ―多民族社会アメリカ』雲南堂、1986年。
 今回のテロ事件は、学園都市として、学問を軸に多文化・多民族社会としての開放性を謳歌しているように見えるボストンもまた、アメリカの一都市として抱える移民社会の現実を、再び人々に思い出せることになりました。今回のテロ事件で逮捕されたツァルナエフ兄弟がチェチェンからの移民であったことで、各種報道、そしてテロの背景を理解しようとする学者、人々の目も、再び移民社会としてのアメリカに向けられました。兄弟は2002年頃に難民としてアメリカに移民したと言われています。なぜ、兄弟が事件を起こしたのか、そこには兄弟のアメリカ社会に溶け込めず、不安と孤独を抱えていたと指摘する声もあります。
 「自由の国」であるはずのアメリカが、その社会おいて不断に自由を巡り葛藤し、時に自ら自由を圧迫してきたことへの自問自答こそ、アメリカ史の第一のテーマです。市民権運動をはじめ、エスニスティ、ジェンダー、セクシャリティと、アメリカ史は常に権利を求める戦いの歴史、痛みの歴史であり、それは現在も続いています。

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