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コラム:ライフサイエンス分野における知的財産戦略

【第5回】 iPS細胞の発明とその当時の知財戦略(2011.7)

日本と米国の特許制度の差異が非常に大きいことは既に前回紹介した。

日本ではハンカチ程度だが、米国では大風呂敷の出願が可能

 すなわち、同じコンセプトに基づいた発明であっても、それを証明するためのデータが十分でないような場合、日本で出願可能な範囲と米国で出願可能な範囲とが大きく異なることである。
 比喩的に言えば、証明するためのデータがハンカチ程度の広さの場合、日本で出願できる範囲はハンカチ程度の広さしかないのに比べ、米国では、同一のコンセプトに含まれるものであればすべてを大風呂敷として出願することが可能である。
 特許は出願時より広い範囲で権利化されることはないので、日本流の出願ではハンカチ程度の権利にしかならないものでも、米国流で出願すれば、大風呂敷程度の広さの権利を得ることができる。
 また、権利範囲の広さとともに、もうひとつ重要なこととして、一日を争う特許の世界において、この米国流の出願で仮出願制度を活用すれば、日欧よりもほぼ1年程度早い時点でコンセプト出願をすることが可能なことがある。

集積回路の基本特許、米国では 「回路全体を半導体に作りこむ」というコンセプトが特許に

 米国流の出願の一つの典型に、集積回路の基本特許がある。
 集積回路の基本特許は、キルビー特許(US3138743)とノイス特許(US2981877)の二つがあり、いずれも1959年に出願され、1964年と1961年にそれぞれ特許となり、半導体メーカーは多額のロイヤリティを支払っている。この二つの特許は、いずれも「回路全体を半導体に作りこむ」というコンセプトに基づく出願で、日本流の考え方ではほとんどあり得ないような内容となっているが、米国出願を基礎とすることで日本でも特許が成立している。
 大学・研究機関の知財関係者で、このような日本流の出願と米国流の出願の差異を明確に認識している人は、いまでもあまり多くはないと思うが、iPS細胞が発明された当時では皆無に近かったと思われる。
 日本製薬工業協会(製薬協)は、2008年11月から1年間、大学・研究機関で行っているiPS細胞関連の研究成果を知的財産としてグローバルな観点から的確に保護することを支援するため、「知財支援プロジェクト」を時限プロジェクトとして実施したが、これを立ち上げた目的は、大学・研究機関の研究者・知財関係者に、米国と日本の特許制度の差異を認識してもらい、その認識に基づいた知財戦略を実践して欲しいと考えたからにほかならない。

米国仮出願を利用し、コンセプトの内容を広い権利範囲とし、スピーディーに出願する

 山中先生のように知財に対して高い意識をお持ちの研究者の研究成果の出願であっても、もし知財戦略の観点から問題があるとすれば、適切な知財を得ることはできない。この状況を放置すれば、多くのiPS細胞研究の成果の知財は悲惨なことになる可能性が高い。
 そのような危機意識が製薬協に「知財支援プロジェクト」を立ち上げさせたと言っても過言ではない。
 知財支援プロジェクトは、1年間でiPS細胞関連研究を行っている主要な大学・研究機関をすべて訪問し、研究者と知財部門の担当者に対し、製薬企業が実践してきているグローバルな知財戦略の基本的な考え方などを紹介した上で、「iPS細胞関連技術のように、研究のアイデア・コンセプトが非常に重要な場合は、米国仮出願を利用し、米国流にコンセプトの具体的な内容を広い権利範囲とし、そして、スピーディーに出願することが望ましい」とのアドバイスを行ってきた。

米国の大学などは、コンセプトの具体的な内容を請求項として記載した出願の形式

iPS細胞関連研究を行っているような最先端のライフサイエンス施設34ヵ所の大学・研究機関で、米国仮出願を戦略的に利用した経験があったのは1大学のみであり、また、ライフサイエンス分野の知財担当者がいたのは3施設のみであった。ほとんどの大学・研究機関では、研究者と知財部門の担当者の双方から、「初めて聞く話だ」あるいは「考えたこともなかった」との反応が示された。
 iPS細胞関連研究でどのような出願が行われているかは、特許協力条約(PCT)に基づいて世界知的所有権機関(WIPO)に出願された国際特許出願(PCT出願)で傾向を見ることができる。
 iPS細胞関連研究の出願を調べた結果、米国の大学などからの出願は、そのほとんどが米国仮出願を利用していた。それに対して、日本の大学などからの出願は、大多数が日本出願に基づくもので、米国仮出願を利用したものはほとんどなかった。  また、山中先生の出願は、初期のものを除いて、ほとんどが米国仮出願を利用しているが、仮出願を利用し始めた時点では、米国の大学などが行っているように、コンセプトの具体的な内容を請求項として記載した出願の形式は採られていないように見受けられた。
 日本の大学などのPCT出願は、ほとんどが日本出願を基礎としたものであることから、これらの出願は、研究の具体的な内容とそれを実際に証明したデータとが揃った、いわゆる日本流の出願になっていると見受けられる。

論文投稿のはるか前の段階で仮出願を行うのが、米国流の出願戦略の基本

 一方、山中先生とほぼ同時期にヒトのiPS細胞の樹立に関する論文を投稿したWisconsin大学のThomson教授は、iPS細胞関連研究の国際出願を行っているが(WO2008/118220)、この出願では、当然、米国流の出願戦略を採用していることを垣間見ることができる。
 Thomson教授は2007年10月9日に、ヒトiPS細胞の樹立に関する論文を投稿しているが、その半年以上前の2007年3月27日に、最初の米国仮出願を行い、引き続いて2007年9月25日と論文発行の前日の11月29日に米国仮出願を行った上で、2008年3月21日にこれらの仮出願に基づく国際出願を行っている。
 最初の仮出願は、単なる当たり実験のような実施例が2例記載されているだけであるが、請求項は32もあり、そのうちの16は国際出願の請求項と実質的に同じものとなっている。Thomson教授のように、論文投稿のはるか前の段階で、研究コンセプトの具体的な内容を請求項として仮出願を行うのが、米国流の出願戦略の基本である。

日本流出願の呪縛から逃れ、米国で有効な権利を取得することは必須

 知財支援プロジェクトの展開である程度の成果は得られたと自負しているが、日本の大学・研究機関の知財部門は、ライフサイエン分野の研究成果の知財化で、製薬企業が実践しているようなグローバルに通用する知財戦略、すなわち米国流のアプローチによる出願を行うことに対して、依然として躊躇があるように見える。
 ライフサイエン分野における研究成果の知財戦略では、世界シェアの約50%を占める米国で有効な権利を取得することは必須であり、日本流出願の呪縛から逃れることが常識となるように、知財支援プロジェクトの精神を引き継いでいく有志達が今後も活動を続けていくことが必要であろう。


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